映画「インセプション」のオチについて <ネタばれ注意>

今年もあと一日で終わりという時に、こんなエントリーをあげるのもどうかとしばし考えたが。。。

先日出張中の機内で二回も見てしまった「インセプション」のエンディングについて。
日本とアメリカでの考え方の違いというのに、少しでくわしたような気がしたので、ここで私の見解を述べてみる。
ネタばれに注意頂きたいが、すでに時間が経っている映画なので、もうそれほど問題にはならないだろうか。
私の結論の根拠は2回(英語と日本語吹き替え)の視聴と、日本語・英語で調べられたいくつかのウェブサイトのフォーラム、そして出演者の一人がコメントした内容に基づくものである。もちろん、この映画はわざとどちらか分からないようにしてあるので、どちらで考えるのも自由である。
あくまで、個人的にはこちらのほうが「理屈にかなっている」、と思った。ということだけである。

結論から言うと、私の見解はこの映画の終わりは「そのまま」の意味である。つまり世間で言われているような「夢オチ」ではないと思う。
そして、何より、ポイントは「夢」か「現実か」を見極めるということではなくて、主人公であるコブが取った行動が重要ということだ。

主人公のコブは最後、トーテムを用いて恒例のスピンチェックを行うが、子供たちがでてくることで、注意をそちらに向けて歩いていってしまう。
つまり彼に取っては、目の前にいる子供たちが現実で、それが現実か夢かはもはやどうでもよかった、あるいはそれが夢なら夢で醒めて欲しくないと思った。
ということを示唆している。彼の苦痛と親としての愛情がよく描かれているシーンである。脚本家を志す私としても、映画としてこれを描こうとすると、あぁいうエンディングにせざるを得なかった、というのは納得できる部分である。
もちろん、バイラルマーケティングが用いられたこの映画で、最後のシーンは話題を巻き起こすのには最適だったろう。(韓国映画のカルでも似たような手法が用いられて、掲示板でものすごく盛り上がったのを見た記憶がある)

では、私が夢オチだと思わない理由は何か、というと。夢オチだと考えると腑に落ちない点が多すぎるからだ。それを全て述べるよりは、夢オチと考える人たちが指摘する点について、アメリカの議論で説明されているのを紹介してみたい。

1 子供たちが着ている服について
  ずっと同じ服を着ているとされているが、スタイリストは微妙に服装が違うとコメントしているらしい。実際に靴が違うのは確認できるとか。
2 子供たちの背格好(年齢))について
  年齢が同じように見えるというのもあるが、実際にはクレジットのところで年齢が二通り(フィリッパは3と5歳、ジェームズは20ヶ月と3歳)準備されているらしい。いずれにせよ、コブが家族のもとを離れていた期間というのはせいぜ2~3年(私には数ヶ月という風に感じられたが)ということなので、あの短いショットでそんなに見た目が変わるようにはならないのも無理はない。
3 コブの義父役を演じたマイケル・ケインはインタビューで、上記の視点をほのめかすようなコメントをしている。
4 コブが夢の中だけでしている指輪が、最後のシーンでは登場していない。

虚無(Limbo)の部分については、あくまでもコンセプト上のことなので、つじつまが合わないことがでてくるのは仕方ないと思うのだが、いずれにせよ、私としては現実と考えたほうがすっきりした。(実際にコマは最後のほうで勢いを弱めている) もちろん全部理解できているというわけではなく、いくつか分からないこともあるにせよ、夢オチと考えたことに対する矛盾の方が頭の中で大きい。

英語圏ではむしろ夢じゃないという考え方が主流なのに対して、日本のほうではざっと検索する限りでは夢オチとするほうの意見があまりに多いようだったので、あえてコメントしてみた。 詳細を確認するためにもう一回見たいと思った時点で、もうインセプションにかかっているのだろう(笑)

関連リンク:
Inception Ending Explained (and Discussion)
Inception Explained: Unraveling The Dream Within The Dream
Inception Ending

立入 勝義 (Katsuyoshi Tachiiri) 作家・コンサルタント・経営者 株式会社ウエスタンアベニュー代表 一般社団法人 日本大富豪連盟 代表理事 特定非営利活動法人 e場所 理事 日米二重生活。4女の父。在米歴20年以上。 主な著書に「ADHDでよかった」(新潮新書)、「Uber革命の真実」「ソーシャルメディア革命」(ともにDiscover21)など計六冊を上梓。