今朝の東京は5月というのに朝からなんだか蒸し暑かった。まるでこれから始まる一日を象徴しているかのようだ。
朝方ゴミを漁るように、こちらからあちらへと落ち着かずに移動していたうぃる爺はマックでお気に入りのコーラを買って、窓際の席でそれをぐいと飲み干した。店内に座ると目立つのだが、それは彼の足がすごい勢いで貧乏揺すりを続けているからでもあった。見た目はホームレスさながらだったが、実は服はそんなに汚れているわけでもないので時折選択はしているようだ。風呂にもたまには入っているのだろうか。
朝7時の東京都内のファーストフード店や喫茶店にはサラリーマンやOLが多い。彼らは自分たちの生活を時間通りにきっちりコントロールすることに何よりの喜びを見出しており、デビッド・アレンのGTD(Get Things Done)と言った本を読んで毎日の作業の効率を高め生産的な日々を過ごすことを誇りとしている。そんな彼らの目にはうぃる爺はただの薄汚いオヤジである。彼の前を通り過ぎる者たちの視線にはうっすらとした冷笑や、なかにはあからさまに軽蔑の視線を投げかけるものもいる。だがうぃる爺は一向に気にしない。
やがて、窓際のスツールに腰をかけて朝の忙しい表通りを眺めながらコーラを飲んでいたうぃる爺の隣に、きっちりとしたピンクのスーツを鮮やかに着こなし、知性的なメガネをかけた女性が座った。どうやら店内が混雑してきたので、他に席がなかったようだ。
うぃる爺はしばらくその女を観察していた。女はまったく気づかない振りをしつつも、何か自分の威厳を保とうと必死になっているっぽかった。
女は手持ちのカバンの中からキンドルと呼ばれる電子端末を取り出した。それを見たうぃる爺の目は輝き始めた。どうやら女はそのキンドルで、英語の洋書などを読んでいるらしい、WSJなどという言葉が表紙にでたりすることもあるので英字新聞を読んでいるのかも知れない。
うぃる爺は女に話しかけた 「ちょっと訊きたいんやが、どやその端末は使い易いか?キンドルとかいうんやろ?」
女は怪訝そうな顔をしながらも、このホームレスような老人が今流行りのキンドルという単語を知っていたのに少し驚いた。時代に敏感と言われる彼女もつい最近アマゾンというオンライン書店で購入したばかりだと言うのに。少しためらいながらも 「えぇ、とっても使い易いわ。何より読みたいときに読みたいものが読めて、安いし。英語圏の情報を手に入れるのにはもってこいよね。私、よく本を書くの。だからたくさん資料を集めないと、しかも効率的に、ね」そう言いながらちらっと時計をみた。あと10分45秒でこの場を去り、オフィスに向かう必要がある。だが、その前に日課としている読書をしなければならない。こんな老人の相手をしている必要があるだろうか。
「そのうちみんなそういう端末を持つようになるんやろうな、携帯電話みたいに」うぃる爺は続いて尋ねた。
女性は何だか自分らしい主張をしないと気が済まないという感じになったようで、こう言った 「いえ、私はそうは思いませんわ。こういうのはインテリとかビジネスマンとか、情報に対価を支払うことで良質な情報を手に入れる必要がある者だけが持つようになればじゅうぶん。年収300万円じゃ、可処分所得が無くてこういう端末を買うことに意識がいかないんです。みんな自分の楽しみばかり追いかけて、結果的には非生産的な人生を過ごすことになるのよね、バカみたい」 女はとにかく非効率とか非生産的というのが大嫌いみたいだった。
うぃる爺は首をかしげながら言った 「なんだか、論理が飛躍しとるようやが、まぁえぇ。しかし年収300万円だろうが、なんだろうが、電子出版を楽しむ権利は誰にもあるんとちゃうか?」
女性は少しため息をついた。こういう老人に最先端の話をしてみるというのも社会貢献の一環になるかも知れない。次回の講演の際やブログのネタにでもできると考えると、あと13分くらいなら時間を費やしてもいい、いや14分半か。いずれにしても15分は使い過ぎだろう。
「いえ、日本では電子出版はマスには普及しないと思います。何故なら先をいっているアメリカでは購入しているのは知識層だったり、専門家だったり、いわゆるインテリのツールなんです。アイパッドという別の端末ならもっと若い人向けかも知れませんが、私みたいな層にはキンドルがあってるんです」女性は自分の見解を曲げようとはしなかった。
「アイパッドはキンドルみたいな電子ブックリーダーというよりは、多機能なタブレット機やからな。若い者にはそっちのほうが受けがいいのか知らん。せやけど、そんなのは本質的な議論とは違う。電子出版はインテリ層だけのものや、というところがひっかかるな。なんでそう思うんや?」うぃる爺は少しずつ語気に力が入っているのが分かった。明らかに目の輝きが増している。
女は少し警戒し始めていた。この老人、もしかしたらただ者ではないかも知れない。
「簡単です。だいたい日本の出版社は自分たちのことしか考えていないからまともに交渉もできない。今もコンテンツの大半は英語です。何故なら、キンドルもアイパッドも現時点では。。。」
そういう女性の言葉を遮ってうぃる爺は言葉を継いだ。
「日本語フォントに対応してへん、そういうことやな?」
女はぎくりとした、最近こういう手合いが多い。人間は見た目では判断できないことは、こないだの対談でもよく分かったことだ。冷静さを欠くことは負けにつながる。落ち着かなければ。。
「えぇ、そ、その通りだわ。出版社は電書協というものをつくって一致団結して黒船侵攻を阻止しようとしてる。自分たちの利権を根こそぎもっていかれるのは彼らにとって死活問題だから。そして何よりその背後には。。。」女は思わずテンションが上がっていく自分の感情を静止しようと必死だった。が、またしてもうぃる爺に言葉を継がれることになる。
「取次がおる、そう言いたいんやな」うぃる爺はうなづきながら言った。ペースを乱され我を失いつつある女性とは対照的に、この会話を心底楽しんでいるようだった。
「確かに取次は今危機的な状況にある、これまでとはまったく違うビジネスモデルやからな。取次いうのは本来本を運ぶことを生業としとった訳やが、電子出版ではそれがまったく必要がない。全部ネット経由やからな。しかし、話がちょっとずれとるな。それは電子出版があんたらインテリ層だけのものになる根拠にはならんのと違うか?」
女は自分の論点がずれかけていたことを指摘されて、もはや我を失いつつあった。まずい、これは負け戦になるパターンだ。深呼吸だ、この場から得られる自分への教訓を学ばないと。。。頭の中にいろんな考えがうずまいてきた。
しどろもどろになりながらも、ようやく口をついて出てきたのは 「マンガ、そう、あのマンガというやつが日本では出版業界の売り上げの大半を占めているの、出版界はマンガで成り立っていると言ってもいい。でもそのマンガはもっと規制が厳しくて、大手三社ががっつり有名作家の首根っこを掴まえているから、彼らは電子出版の世界にではでていけない。つまり低俗な、し、失礼、大衆文化的なコンテンツは日本では電子出版の市場に供給されないから、マス向けにはならないのよ。おじいさんには分からないかも知れないけどね」
ようやくなんとか自分らしい議論にもっていけたと思っている彼女は、実はこの老人がまた何かとんでもない反論をしかけてくるのではないかと気がきではなかった。だいたい彼女はマンガを子供だましとバカにしていてろくに読んだことがなかったのだ。突っ込まれたら何も返せないのは目にみえていた。
女のそういう脳内の動きを全部見透かしたように、うぃる爺は少し間をおくと一気にたたみ込んだ。本当にこういう議論が大好きなようだった。
「マンガ家が出版界を食わせるいわれはない、そういう名言を放って自分で作品をオンラインで売り始めた何とかいう作家がおったな。マンガが日本で人気がある理由は、マンガには本にはない素晴らしい部分があるからや。わしはそう思うとる。あれは芸術や、間違いない。でも芸術家は弱くて脆い存在やから搾取も利用もされやすいんやな。それにマンガ市場にはもっと大きな可能性を秘めとる場所が他にある、あんた、同人誌いう言葉聞いたことあるか?」
同人、という言葉を聞いた途端に女の中で何かがブチ切れた。あのいかがわしい、同性愛とか幼児ポルノとか、あの汚らしいオタク連中があつまるコミケとかいうイベントに数多くあつまる若者をみているだけで気がおかしくなる。中学生になった自分の子どもたちにもあぁいう場所に出入りしてはいけないと口を酸っぱくして言いつけているところだった。
思わず女性は大きな声をだした「ダメダこれ!」
こんな卑猥な議論に時間を費やすのはもったいない。大体すでに予定の時間を23分20秒オーバーしている。最初の社内会議まであと19分と40秒しか無い。化粧直しの時間を入れてギリギリ間に合うかどうか。
「おいおい、落ち着け。別にわしは何もヤオイやユリや、そういう話をしとるのと違う。幼児ポルノについての規制が世界ではめちゃくちゃ厳しくて、日本のコンテンツの基準が世界水準と大きくかけ離れとるのもよう知っとる。あんたも子供がおるような年やから、自分の子供への影響も考えたら我を失いそうになるのもよう分かる。なにせ有害図書、なんて言われとるくらいやからな。今その議論をするつもりはないんや」
女はそう言われて自分の中の血の気がすーっとひいていくのを感じた。この老人には全てを見透かされているようだ、大体マンガのことについても勉強一筋でやってきた私よりもはるかに知っているに違いない。。。
老人は静かに、落ち着いて弁を続けた
「電子出版の問題は、議論が端末ありきの議論に集中しがちになることやと思うとる。そうすると全部端末を作るメーカーの思惑通りに話が進んでしまう。日本語のコンテンツがまだまだ少ない理由は、フォントが内蔵されとらんからや。UTF-8やったら簡単にフォントなんか入るのにや。つまり、日本語コンテンツを阻んどるのは大手出版社やなしに、端末メーカーや、いうことになる。ほんで、そもそもの問題が日本のメーカーがどこもまともな端末つくっとらん、いうことや。外人が日本語みたいに特異な言語に本腰入れられるわけあらへん。市場も地球の人口の60分の1やからな。そんなことするくらいやったら中国語に対応するほうがよっぽどええやろ。海外の端末メーカーが日本の国益なんか考えるわけあらへんがな」
女性は我知らず、カバンから手帳を取り出してメモを取り始めた。社内会議なんかに出ている場合じゃない、このことをまた自分の名前で本に書いたら私のトレンドセッターとしての地位がまた高められることになる。ペンは老人の言う事を一字一句逃すまいと忙しなく動いていた。
「だいぶ聞く耳もってきたようやな。そうや、せやからキンドルやアイパッドやいうて大騒ぎしとる間に、黒船はじわりじわりと日本の中に入ってきとる。黒船、言うくらいやからな、黒子みたいに目立たんようにして一番深いところに入ってきよるんや、それがたち悪いねん。手品と同じや、右手が動いてる時にはタネを仕込んでるのは左手の方や。陽動作戦いう言葉もあるな」
女性は思わず吹き出してしまった。この老人は昔漫才でもやってたのだろうか、それとも関西人はみんなこうなのか。まったく面白い人たちだ。
「フォントを入れると海賊版のコンテンツもいっぱいでてくる可能性がある、もちろん同人もや。規制にごっつ手間かかるがな。アマゾンも日本法人にはそんなリソースあらへん。なにせやつらは本が売れたらええんやさかい、アイパッドにもちゃっかりソフト入れとるやろ。あいつらは両方共アメリカから来とる。うまいこと組んで日本に攻めいって、お互いにうまいこと取り分を分け合う魂胆や。それにこれからグーグルも来るし、マイクロソフトも、まぁ、ウィンドウズ7はタブレット対応やめたらしいから、あいつらはKinみたいな携帯端末狙いに変わるか分からんけどな」
Kinという耳慣れない言葉を聞いて女は確信した。この男性はきっととんでもない権威に違いない。自分のことを知っていて、こっそりアプローチしてきたのだ。そうに決まっている。最近著作が増えるごとにメディアでの露出が増えていることを彼女自身が一番知っていた。そのためにかかる衣装代も随分増えたが、逆に使う経費も増えていた。こうなれば、この男性との会話を締めくくる方法は一つだ。女性はすでに二手、三手先を読んでいた、いや読んでいるつもりだった。この期に及んでさえ。。。
うぃる爺はそういう考えに気づいてか気づかずか、ペースを速めて話を続けた。
「せやから、まずは一歩引いてみて、電子出版と端末を切り離して考えるのも一つの手や。そしたら端末依存してた時と違う可能性が見えてくる。みんなの目は半分くらい開いてきとるから、もうすぐやっと波はくる、そう思うとる。いろんなクリエイターが自分のコンテンツを発表して、それを直接購買できるモデルをもっとしっかり確立すべきや。そして世界を狙う、くらいのつもりで作品を作り始めてもええ。今までとは違う市場やねんから、これまでの地位や名誉や、出版部数や、そんなもん関係あれへん。一からやり直しや、下克上や。大手出版社の動きに合わせてる必要なんかまったくあれへんがな。みんな日本のコンテンツ狙うとるんや、そう言わへんだけや。でもここでのコンテンツいうんは、既存作品のことちゃうで、クリエイターや。書き手とそれを育てる成熟した市場、それが日本の魅力や。日本の読者はマンガ見るのに世界で一番目が肥えとるやろ。その気になったらアジア制覇なんかあっという間や。あんた、きっと本とか書いとるやろ、そういう顔しとる。もしも有名なんやったら、あんたみたいな人間が言うことみんな聞くんやから、おかしなことだけは言わんといてくれ。今年市場が立ち上がらんかったら、日本はとんでもないチャンスを逃すことになる」
ふ、白々しい。すべてお見通しの癖に、そう思った女は思わず笑いそうになった。あなたの魂胆は全てお見通しよ。だが最後のセリフはまだだ。時計が指す時間はラジオの対談に準備するのにギリギリの時間になってきている。
「まずはみんなの頭の中から電子出版についての既成概念を取っ払うべきや。そしたらその可能性がもっと見えてくる。マンガだって本だって、要はコンテンツや、それが一番大事や。それがこれから変わってくる、いうことや。あと本屋も変わる。ツイッターみたいなマイクロインフルエンサーモデルとか、コンテキスト型検索、みたいなもんがもっと大事になるんや。広告手法なんか、これまでとまったく変わってくる。しゃーから有名な人が大事やし、みんな自分で見る目を磨かなあかん。それが一番効率的や、そういうことやろ?」
「その通りですわ」まさか自分が生産性についての講釈を受けることになるなんて、女は自分自身でも呆れるくらいだった。
老人はどこから取り出したのか、数冊のマンガ本をテーブルに置いていた。そしてそれを女に指さしながら、こう言った
「このマンガ読んでみ?日本のマンガの可能性がここにある。世界にも通用するような素晴らしい作品や、芸術や、わしはそう思うとる。あんたの力でこういう作品の素晴らしさを世に広めてやってくれ。そしたら若いやる気のあるクリエイターがきっと後に続くやろう。。。」
女はマンガを手にとってみると、そこには「罪と罰」というタイトルがあった。ドストエフスキーの小説と同じ題名だが、女子高生らしきキャラが写っているのはどういうことか。もう一冊には「PLUTO」と書いてあった。この絵柄には見覚えがある。内容は、ロボットの話か。まぁいいとにかく読んでみよう。そろそろ話を切り上げないといけない、女は最後のセリフを告げようとして顔を上げた。
「おじいさん、悪いんだけども今日はもう時間がないから今度また時間をくれない?失礼なことも言っちゃったし、改めて私のラジオ番組の対談でおじいさんの意見を聞かせて欲しいの」
そう言いかけて顔を上げたら、そこにはすでに老人の姿はなく、老人の飲んでいたコーラのカップだけがそこに置いてあった。
「やられたわね」そう微笑むと、和恵は席を立った。まったくこれだから人生はやめられないのよね。セレンディピティ、本当にいい言葉だわ。
第三話 「うぃる爺、売れないマンガ家に喝を入れる」 へ続く
第一話はこちら
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