この数日、ツイッター上でウィキペディアンの方々とやり取り、というか「やり合う」機会が多くあった。
私自身としては、そのような生のウィキペディアンの声を聞けて嬉しいこともある。しかし、直接声を聞いてみても、実際にウィキペディアの中を覗き込んだ時に感じるのと同じような雰囲気がある。
それは、ウィキペディアンには至極まともな方もいるが、偏狭で礼儀作法をわきまえない方も多いということ。
実世界の縮図、という人もいると思うが、そうではない。まだまだウィキペディアの世界は特殊な世界である。
実社会にはまだまだネットに触れたこともないような人たちもいるし、デジタルなんてどうでもいいアナログ人間だって数多くいる。子育てに集中している人もいれば、野菜づくりだけをしている人だって、当然毎日オンラインゲームしかしない人だっている。だが、ウィキペディアを編集するウィキペディアンたちについては、少なくともネットに触れないというような人はいないし、日本語がまともに読み書きできないような人もいない。つまりコミュニティは一般社会を代弁していない。なのに知名度だけどんどん先走っていく。それにつられて権威づけもされていく。
例えば現在60名(最近減ってる!?)いるとされている「管理者」たちはウィキペディアに精通した方々だ。五本の柱についてなど説明することすらない。(なぜ五番目がいまだに論争中かについて正しい答えを出せる人は少ないかも知れないが) しかし、75万項目を管理するというのは並大抵のことではない。日々、多くの編集合戦もあるだろうし、どこの馬の骨とも分からない人々を相手にするプレッシャーたるやとんでもないものだろう。
私が「ウィキペディアンの憂鬱」で描きたい内容というのは、このような実態である。そして、目的として、より多くの方々にウィキペディアの意義を理解してもらい、編集に参加してもらい、そしてできたら管理者の数がもっともっと増えたらいいと思っている。ウィキペディアはみんなのものであり、未来の人々のものでもある。
今回の一連の騒動は、例えば私がウィキペディアを「ウィキ」と言ったことに対して過剰な反応を示してきたり、実名で大手出版社から著作を出したり、新聞やラジオなどのマスメディアにも露出したりしているような人物であるにも関わらず「怪しい男」呼ばわりされたりと、とにもかくにも「ウィキペディアン」のイメージを悪くするものばかりだ。ウィキ廃人という言葉が昔あったが、彼らが相手のことをよくも知らずにいきなり大上段に構えて、相手をバッサリ斬り殺そうとする態度を見ると、本当に彼らはウィキペディアの哲学を私よりもよく理解しているのだろうかと訝しがってしまう。
「初心者をいじめない」とか「礼儀を忘れない」という根本的な部分が理解できているのだろうか、と。
また議論がすぐに現実を越えて机上の空論化してしまうのも悪い点だ。今回も私が(自称)書き手だと揶揄してきた例があった。
その相手は、「書き手」という定義を巡って、散々逡巡した挙句、ベストセラーがあっても著名な著者とは言えない、結局は引用(出典)数が重要な根拠。などと言い張る。
(ではその引用数とやらをどこかにまとめたデータベースがあるのか、という話だ)で、そこではネットの検索結果などには重きがおかれない。つまり、彼が言っていることは「俺がノーだからノーだ」というに過ぎない。なのに、逆にこちらに対して私が「自分を世界の中心」だと考えているなどといってくる。逆でしょうが。
一番問題なのは、数冊の著冊を出している相手に対して「自称」書き手などという暴言を吐いて噛み付いてくるところだ。そして、自身は匿名、顔出しなし。
私は2000年に日本に帰国した際にこれまで見たこともなかった「秋葉系」人間に囲まれて、苦労した経験があったが、今、そういう点でリアルのウィキペディアン(といっても、この某氏は匿名だ)とのやり取りで彼らの空気を読むのに苦労している。
ソーシャルメディアを巡っての論争の中に「オープン」と「クローズド」がある。ウィキペディアは記名性であり、編集履歴は全て残っている。
アメリカには実名のウィキペディアンも多いが、日本ではほぼ皆匿名だ。これにはいろいろ事情があるのだろう。
つまり社会的に、まだまだ彼らが実名で作業ができるような「理解」の土壌がないということも一因である。ソーシャルメディアは「個」により成り立つメディアである。個性の尊重、思想や表現の自由が守られなければ、ソーシャルメディアの発展はありえない。フェイスブックやツイッターがソーシャルメディアだと思っている人は、マーケティング的なほんの一部分しか見えていないということだ。
で、「ソーシャル」という言葉にも表れるように、人間は社会的動物であるという本質に立ち返らせてくれるメディアでもある。東京は人口が過密した世界でも有数の大都市だが、「ソーシャル」かというとそうではない。ワンルームマンションに住んでいても、隣人とコミュニケーションを取らない、あるいは誰が住んでるか知らないという人が大半だろう。日常性の壁という有名な評論で、何故蛇を人は恐れるか、ということについて述べたのは安部公房だった。蛇には足がなく、普段何をしているか全く想像できない、そういう存在が急に出てくる事に対して人間は「恐怖」を覚える。幽霊についても同じだという。そういう意味で、ウィキペディアンは怖い。得体が知れないイメージがあるし、急に噛み付いてくる!(これじゃ、そう思われても仕方ない)
言うまでもなくソーシャル(social )は社交的という意味だ。(類義語にsociable ) つまりソーシャルメディアが成り立つ前提には「個」の尊重と、それの上に成り立つ社交性というものがある。この社交性とは何かというと、それはエチケットであり、マナーである。ソーシャルメディアが熟成してくるとユーザーの間にこのマナーに対する理解が深まってくる。最近筆者はワルツ、タンゴ、スイングなどの社交ダンスを学ぶようになり、ますますその点について理解できるようになってきた。(それはまた後日)
ところで、ソーシャルメディアの代表的存在といえばウィキペディアなのである。そして、そのウィキ「ペ」コミュニティを代表しているのが、ウィキペディアンであり、管理者、ビューロクラットなどの役職者である。彼らにはその点で、言論の点で一般人に対して模範とあって欲しいと願っている。結果的には、彼らは一人ひとりがウィキペディアのセールスマンであり、彼らの人格がウィキペディアの人格、そう捉えられてしまう。彼らの多くは、ウィキペディアの五本の柱の内に「相手に敬意を払う」というルールがあるのを知っている。しかし、それはウィキペディアだけに当てはまるものなのだろうか?答えは否だ。相手に敬意を払うというのは、どこの社会にでも必要なことだ。匿名だろうが写真出してなかろうが関係ない。ソーシャルメディアが普及した背景に人権意識、個性の尊重があり、それらが草の根ジャーリズムとしてのソーシャルメディアを支えてきたというのが欧米におけるソーシャルメディアの潮流である。
ウィキペディアを「ウィキ」と略すことについてポリシーがあるのはよく知っている。Wikiというと他のシステムや、Wikiwiki ウェブのような書き込みシステムそのものと混同されるという理屈はよく分かる。しかし、ウィキペディアは誰のものだろうか?少なくとも管理者のものではないのですよ。一般人はウィキペディアに姉妹プロジェクトがあることや、Pukiwiki みたいなミニウィキがあることも知らない。本ページ以外にノート(Discussion)があるなんてことすら知らない人ばかりです。ちょっと興味が湧いてきて、親しみを込めて「ウィキ」と読んだ瞬間に「はぁ?」というレスポンスされると一般人はびびってしまいます。
ウィキペディアは2ちゃんねるではない
のです。
もちろん、(自称か他称か知りませんが)書き手の私が書くという観点では、正しい配慮が必要でしょう。しかし、私は何も他のことや議論のことを知らずに「ウィキ」と読んでるのではありません。ウォルマートのことをよく「ウォル」と呼ぶように(ウォルグリーンはウォルじゃない)、ファミリーコンピューターをファミコンと呼んだように、The Wiki = Wikipedia だということで述べているつもりです。もちろん、念のため相手が私が「ウィキペディア」のことを指しているというのが分かるコンテキストでしか使わないようにしますが。ハローキティのことを「キティちゃん」と呼ぶからといって、サンリオの人が激怒して、「ハローキティ」と呼んでください!とかいうキャンペーンをしましたか?悪貨が良貨を駆逐するのはおかしいとか言った人いましたが、何じゃそりゃ。
ウィキペディアンの皆が常識ないとは言いません。しかし、そういう方が存在するのは事実。ソーシャルメディアの世界で、実名で顔出しでコメントしている人にたいして、自分は匿名で写真も出さずに暴言吐くような態度では、お里が知れるというものです。一部の良識あるウィキペディアンの方々のイメージも損なう行為ですので、ご注意ください。
本当に「PR」や「マーケティング」をしたいのであれば、ウィキペディアが、そしてウィキペディアンがどう見られているかについて、正しく現状認識をするところから始めて頂きたいものです。もしもあなたがまとまな社会人としての行動規範をもっていないのならば、人類の英知を結集するウィキペディアの管理者(あるいは編集者)にはふさわしくないのかも知れませんよ。。。
注:ウィキ「ペ」ディア財団は単なるタイポなので、お詫びしてすべてウィキ「メ」ディア財団に訂正します。
気づいてたんだったら、コメントしてくれればいいだけの話なんですがね(苦笑) 手元の原稿では修正されていたので気づきませんでした。