東京電力と東野圭吾氏の予言 ~「さいえんす?」書評

昨晩からここロサンゼルスでは大雨が降っている。ちょうど日本の夕立みたいな感じの雨が振り続く感じ。ちょっとした嵐である。明日は停電かも知れない。
大学時代、地理学部の担任教授が絶賛した、世界でも最も過ごしやすい地中海性気候を誇るカリフォルニアの天候も、最近では少しずつ亜熱帯に近付いているような気がする。

このところ、ツイッターやUSTで日本の地震やら原発やらを追いかけ続けて、アメリカのメディアと格闘したりして、本業のブログもそんなネタばかりになってしまっており、体調もあまりよろしくない。頭が痛いし、よく眠れない。

そろそろ生活を元のスタイルに戻さねば、と思い、気分転換のための読書も少しずつ始めている。そして、一昨日も近くの本屋で、今や日本を代表するミステリ作家、そして地元の大阪市生野区、しかも隣町の中学校の大先輩でもある東野圭吾先生の本を買ってきた。少し前の浅田次郎(先生)ブームに続き、近頃の東野圭吾(先生)ブームは、ちょっとしたもので、もう10冊くらい立て続けに読んだことになる。もちろん現在執筆中のミステリ小説「ウィキペディアンの憂鬱」の参考にするためだが、そんなネタばらしは厳禁である。

で、今回は「さいえんす?(角川文庫)」というエッセイ集を購入したのだが、なんと、これに興味深い短編が収録されていた。
その名も「教えよ、そして選ばせよ」。これはすごく短いエッセイで、ダイヤモンドLOOPの03年8月号に掲載されたとある。

これが何の話かというと、なんとタイムリーな東京電力と停電、そして原発に関する話である。つまり地震以来起こっている問題にピンポイントで突き刺さっている。私の信仰するオカルトの「セレンディピティ(俗的に言うとコジツケ)」が、これをブログに書け、そしたらアクセス稼げるぞ何か国民の皆様に伝えることができるかも知れないよ、と耳元でささやくので、書いてみる。

話は、彼が住んでいるマンションに回覧されてきた『夏の電力供給不足により停電が起こってしまったら』という書類に端を発している。
地震の影響で、夏の甲子園延期が話題になってるらしいが、まさにタイムリーな話である。

彼は言う、これは
「いうまでもなく、東京電力の原発トラブル隠しに端を発した原発稼動停止の影響とその対応策に関するものだ」と。

ふむふむ、何だかとってもリアルだぞ。その後、大先輩は停電するとカクカクシカジカの事態が発生するらしい、と具体例を挙げている。エレベータが止まったり、空調が切れたり、駐車場のゲートが開放状態で、家電も使えず水も出ない云々。挙句の果てには固定電話も携帯電話も使えないそうだ、と。
まさにツイッターでつぶやかれたことそのままだ。

「しかし実際にこんな状況になった時のことを考えてみるとかなり怖い。心配なのは防犯面である。。。」 といって、具体例。そう、まさに怖い。
二000年問題でも実は似た様な騒ぎがあったが、それは実際に大したことがなかった、が、電力は需要が供給を上回れば確実に停電は起きるから、こちらのほうが現実的だ、と述べる。(ガリレオシリーズでもお分かりの通り、彼は理系である)

日本は文明化と高齢化が進むことで、電気に対するニーズはどんどん増え、
国民は
「電気はあって当然のもの」
と受け止めるようになった、とする。
(イザヤベンダサンではないが、まさにその通りだろう) 
そして、次の台詞が耳に痛い。

「節電を意識するのは家計を考えた時だけで、社会全体の問題として捉えることはなくなってしまった。」

そして、こう続ける。

国はなぜ原子力に対する国民の理解を積極的に得ようとしてこなかったのか。たしかに宣伝はしている。しかし「原子力は素晴らしい」と美辞麗句を並べるだけで、真の情報を公開することは頑なに拒み続けてきた。
例えば危険性についてである。国側や電力会社から出てくる台詞は、「とにかく安全」の一言のみだ。その根拠となる具体的なデータの話になると、途端に歯切れが悪くなる。。。

おぉ、まさに、その通りだ。今回のNHKの記者会見そのままである。

もちろん、03年の段階では福島原発はまだ事故を起こしていないので、ここでは95年に大阪で行われたという高速増殖炉もんじゅの運転に関する討論会の話が引き合いにでている。この会議の一ヶ月前に阪神淡路大震災が起きていたので、関西人は大地震についての備えを問うたという。

その時の動燃(当時)の回答はこれ

「『もんじゅ』のあります土地で起こりうる最大の地震を想定してシミュレーションを行いましたが、全く影響のないことが確認されております」
(ママ)

「起きたらどうなるのか?」と食い下がる質問者に対して
「だから起きないんです。起きないことを想定しても意味がない」
と動燃側は煙に巻こうとしたそうだ。

実は氏は、この討論会の一週間前に『もんじゅ』に行って、取材をしていたのだそうだ。しかし、先方はもともと説明する気がなかったのだとか。
これを受け、

「つまり動燃側には、相手の疑問に積極的に答えようという意思がはじめからなかったのだ。質問に答えるふりを装いつつ、議論になるのを極力避けることしか考えていなかったのだといえる。」

と強烈なコメントをしている。うぅむ。各地の原発立地に関する集会でも、ほぼ同じことがいえる、として、あちこちで彼らは質問に対して回答をはぐらかすばかりで、
「これでは、『あいつらは本当のことを隠している』と疑われても仕方がない。」とキッパリ。 これもまさに現在進行形である。

「もっとも原発推進派の気持ちもわからぬではない」、として、そこまで言うにはそれなりの裏があるのだろうと想定している。ただ、それをすべての素人に説明するのは大変だし、中途半端に開示すると、さらに突っ込まれる可能性がある。だから、こういうふうに

「とにかく安全、事故は起きません」と九官鳥のように繰り返しておいたほうが無難だというわけだ。

としている。すごい、九官鳥という例えはナイス。

そして、ここで、日本中で物議を醸した例のキーワード「事象」も登場している。少し長いが引用してみよう。

だがそういう怠慢が現在の事態を招いたことは明白である。「事故は起きない」の一点張りで押し通してきた結果、些細な事故でさえ公表しにくくなってしまった。苦し紛れで彼らはよく「事象」という言葉を使う。トラブルがあっても、「あれは事故ではなく事象です」と表現するのだ。
そして、「事象」で済まされないトラブルが発生したらどうなるか。表面化が免れない事態ならば「事故」として扱うしか無い。

しかし、だから故に関係者以外に分からないトラブル、つまり「事故」はシステム的に隠されるようになったという。これが東京電力の事故隠しにつながったと推察している。そして、そのような事態に対して、ばっさりと東京電力を断罪して言う

「突き詰めれば、本気で原子力発電を国民に理解させようとしてこなかったツケが、今返ってきているのだ。」
うぅむ、ズッシリと響く言葉である。まさに国民の言葉を代弁していると言えよう。

このエッセイのタイトルは「教えよ、そして選ばせよ」だが、氏の見解は科学技術にトラブルはつきものなので、ゼロだとかいい加減なことをいわず、全ての危険性と確率を公表した上で、国民に選ばせるべきだと述べる。まさにその通り。(もちろん啓蒙という課題はある)

もっとも、この突っ込みは国民側にも向けられている。
最後の部分に非常に感じ入るものがあったので、引用させて頂きたい。

もちろん原発やエネルギー問題にまるで無関心だった我々国民側にも責任はある。贅沢な暮らしにはリスクが伴うことを知り、自分たちの未来ぐらいは選べるだけの知識をもっていたいものだ。
この拙文が掲載される時には電力需要がピークを迎えるかも知れない。自由に電気を使えなくなった時、現在停止している原発について東京の人間たちがどんなふうに思うか、非常に楽しみである。
何も考えない、という人が大多数だろうとは思うが。

ということで、再掲載させて頂いた次第だ。すでに彼が知りたかったことについては、それなりの答えが得られたのではないだろうか。(氏は都内在住と聞く)
読者を悩ませる数々の推理小説を発表する、大作家東野圭吾の読みが、今回の震災においてばかりはハズれたであろうことを信じてやまない。

東野大先輩、もしもこれで「さいえんす?」に増刷かかったら、是非とも頑張れニッポンプロジェクトに向けて、ビデオメッセージ下さい(笑)

立入 勝義 (Katsuyoshi Tachiiri) 作家・コンサルタント・経営者 株式会社 ウエスタンアベニュー代表 一般社団法人 日本大富豪連盟 代表理事 特定非営利活動法人 e場所 理事 日米二重生活。4女の父。元世銀コンサルタント。在米歴30年。 主な著書に「ADHDでよかった」(新潮新書)、「Uber革命の真実」「ソーシャルメディア革命」(共にDiscover21)など計六冊。