『最期』の授業 ~あなたは何を学ぶべきか~

数日来ツイートをしているので、私のフォロワーの方にはすでにご存じの方も多いかも知れないですが、この1週間の間に私が経験した「最期」の授業のお話をしたいと思います。

もちろんこれは「最後」の授業をもじったものです。
ご存じない方のために説明すると、「最後の授業」というのはフランスのアルフォン・ドーデという人が書いた短編小説であり、内容は戦争によって母国語であるフランス語を奪われ、「国語教師」としての立場を追われることになったフランス語教師が行った最後の授業のこと。我々の世代には、これをモチーフにしたマスターキートンのエピソードの一つ(第三巻の屋根の下の巴里)が有名なのかも知れません。

では、『最期』の授業とは何でしょうか。最期という言葉は人間の最後、つまり死期・臨終のことを示唆します。
これを今回私に教えてくれたのは、私がアメリカに来た時にであった人物で、アメリカに滞在する直接的なきっかけをつくってくれた数人のうちの一人。
ここではイニシャルでSさんとします。

Sさんは信仰、という言葉を通り越して私に人生の道を教えてくれた方の一人です。
寡黙に、ただひたすら自身が成すべきことを成し続けた立派な方です。
私は人生で、彼より謙虚で黙々と実績を出し続けた人物に遭ったことはありません。そして、彼を知る多くの人々はきっと同じように言うでしょう。
名門大学を出て、トップアスリートでもあった彼は、ふとした出会いから世間的に言えば「牧師」あるいは教育の「アクティヴィスト」としての道を生涯歩みました。
路傍やキャンパスに出て若者と話す姿を見て、我々はよく旧約聖書の義人の「ノア」に例えたものです。彼の人生は、まさにそのあだ名そのものでした。多くの人の人生に影響を与えた、そんな素晴らしい方でした。

彼は末期ガンで昨日その短い人生(享年48歳)を終えました。一日遅れとなりましたが、私は霊前に日本から月曜日に届いたばかりの本を備えにいきました。

出会ってから17年、その親しみやすい実直な性格に私は何度励まされたことでしょう。彼の長女は私がアメリカに来た年に生まれましたから、まだ17歳。一番下はまだ10歳です。子どもが4人、西洋人の奥さんの元に残されました。
治療のために日本に赴きましたが、結果的には手術しても回復の見込みがないことから、それを断念し、先週LAに戻ってこられました。奥さんが迎えに行かれたそうです。空港には彼を昔から知る人々がお見送りに駆けつけたそうです。
最後は自宅で愛する家族や長年の仲間に看取られ、それほど痛みに苦しむこともなく逝去されたとの報を同日の午後に受けました。

私は今でも、彼と出会ったときのことを思い出します。当時浪人生だった私は、日本での大学受験を続けるべきかどうかに苦慮していました。
しかし、結果として彼の助言に従い、アメリカに残ることを決めました。
まさにそのおかげで、アメリカではそれなりに名の知れた大学にも通うことができるようになり、結婚して4人の子供にも恵まれました。
もちろん、彼一人の力でそうなったというわけではないのですが、もしも私に「恩人」と呼べる人がいるとすれば、その数人の内に間違いなく入るでしょう。

「死」の意味
当時の私は漠然と神様を信じていましたが、「死」に対する恐れから逃れることができず苦しんでいました。(幼少期からの強迫観念で、理由はよく分かりません) ここでの「死」は単に自分が死ぬということだけではなく、家族や、国や、歴史、未来、すべてが失くなる、そういうことに対する恐怖でした。言葉ではうまく言い表せませんが、これを考えると私の頭の中は一気に数万年の時間を飛び越えて、パニックに陥り塞ぎこむことが多かったのです。
高校時代に世界史でギリシャ・ローマ時代が大好きだった私は快楽主義(ここの「快楽」は一般的な快楽とは違います。また今度説明したいと思います)で知られるエピクロスの「死は存在せず」という言葉でのみ、それを少し和らげることができたくらいでした。

その死を乗り越える方法の一つは「生」への意識を強くすること、言い換えると「今を生きる」ということです。過去でも未来でもなく現在が重要です。
(もう一つは死後の世界をどう捉えるかですが、これは置いておきましょう。今はあまり議論したくありません)

彼はその人生最後のステージで、私に大きな教訓を教えてくれていました。私はそれを「最期」の授業として、全身で受け入れるようにしました。
思えば私は中学生くらいの頃から急に社会派(笑)になったのですが、そのきっかけは大好きな祖父の死でした。
しかし、当時はまだ幼くてそれは単なる感傷的なものでした。「強くなろう」そう思ったことだけを覚えています。
(その後大阪市旭区役所で行われていたアウシュビッツ展や731部隊展などに勇気をだして見学に訪れ、死の意味、人間歴史の残酷さに胸がえぐられるような思いでした)

Sさんが教えてくれたこと、それは「生き様」と同様に「死に様」でも人間に影響を与えるということができるということ。死ぬ間際、ベッドから起き上がることもできなくなっていた彼は、それでも彼の姿をひと目見ようとする人々と面会し続けました。そして、一言の愚痴も、不満もこぼさず、ただ静かにその人生を終えられたのです。

「死」は誰にも迫ってきますが、日常的にそれを感じることはあまりありません。
しかし、ごく身近な人にそれがやってきた時に人間はふと人生の本質に立ち返るのではないでしょうか。
それは、人は誰でも死ぬと、という簡単なこと。
だけど、日常私たちはその生命を粗末に扱い、どうでもいい瑣末なことで愚痴をこぼしがちです。自分自身を変えようともせずに。
 
私は彼の目の前で、出会いにどれだけ感謝しているかということを伝えました。
それがなければ、私の学生生活も、キャリアも、ブログも、執筆も、そして家族も、まったく別のものになっていたことでしょう。彼はそれをただ静かに全力で受け止めてくれました。むしろ、なぜ自分に感謝するんだというくらいの謙虚さが垣間見えました。「何かしてあげられることがありますか?」と聞いたら、彼は、一言「いや、とりあえず頑張ってもらって」と言いました。彼独特のセリフです。元気な頃とまったく変わりありません。要求することもなく、ただ優しく包みこんでくれる発言でした。正直私は何か指導や、アドバイス、苦言、要求などを少し期待していたのです。だって、それが最期の機会かも知れなかったんですから。(私はそのつもりで臨みましたが)

で、それまで我慢していたのですが、思わず泣いてしまいました。
ただでさえ痩せていたSさんはもう骨と皮だけで、ミイラのようになっていたからです。
面会の最後1時間は彼の手をマッサージさせてもらいました。手がむくんで真っ白になっていました。それをひたすらマッサージしました。彼はまだ若いのに足を自分で曲げることすらできなくなっていて、そばにある枕を取ってくれという程度のことまで私にお願いしないといけなくなっていました。それから6日後、彼は新しい世界へと旅立っていきました。

新刊の表紙を撮影して下さった、佐藤慧さんという若きジャーナリストは岩手県の陸前高田市で母上を津波により失われ、その貴重な体験談を掲載させて頂いています。
今回東日本大震災では多くの方が生命を失いました。その一つ一つがこのように尊いものであり、とても貴重なレッスンを愛する者に与えたのでしょう。2万人が生命を失えば、2万通りのドラマがあるのでしょう。私は震災では家族を失いませんでしたが、今回目の前で消えていった一つの生命の灯火を見ながら、震災の遺族の方々と少しだけ心が近づいたような気がしました。残った者にできることは何なのでしょうか、死に行く者にかけてあげる声は何が適切なのでしょうか。そのカギは「感謝」にあるように思います。

Sさん、本当に本当にありがとうございます。僕は一生その背中を追いかけていきます。最期にお会いできて、「感謝」を伝えられたことが本当に嬉しいです。
でも、ちょっと早すぎましたね。。。

*まとまらない文章ですいませんが、今の気持ちを素直に述べてみました。実はこれはまだ彼が存命中に書き始められたエントリーで、じっくり続きを書く間を見つける前に亡くなられてしまいました。それくらい、あっという間のできごとでした。

立入 勝義 (Katsuyoshi Tachiiri) 作家・コンサルタント・経営者 株式会社 ウエスタンアベニュー代表 一般社団法人 日本大富豪連盟 代表理事 特定非営利活動法人 e場所 理事 日米二重生活。4女の父。元世銀コンサルタント。在米歴30年。 主な著書に「ADHDでよかった」(新潮新書)、「Uber革命の真実」「ソーシャルメディア革命」(共にDiscover21)など計六冊。

1件のコメント

  1. Britty
    2011 年 7 月 17 日

    こんにちは、こちらにコメントするのははじめてです。というわけではじめまして。本論ではないところへのコメントで恐縮ですが、ドーデの最後の授業へのコメントがひっかかります。

    「母国語であるところのフランス語」の「最後の授業」、この捉え方は、意識してかいたのであれば正確、無意識に母語と母国語を混同しているなら、言語と文化・エスニシティというものへの理解が問われる箇所かとおもいます。

    舞台がアルザスであるということが話の肝で、生徒たちの母語はドイツ語系のアルザス語です。そこをフランスとドイツがとったりとられたりして、そのときはフランス語が公用語として教えられていた。生徒たちと教師には温度差があります。ドーデはそれを理解したうえで、しかしフランス人として主な想定読者層としてのフランス人のナショナリズムに訴えている、この構図を理解しているかどうかが、この作品を語る上でつねに重要かと思いますが、エントリ全体からは、立入さんがそれを踏まええいないようにも感じられました。

    なお「最後の授業」には続編があり、そこで大人に叱られた生徒がアルザス語で泣き言をもらすシーンがあり、ドーデは生徒が常用する言語、生徒の母語がフランス語ではないことを理解した上で作品を書いていることはほぼ定説となっている、と思います。

コメントは受け付けていません。