D61 帰国4日前 浅田彰 vs 東浩紀に思う

あっという間に帰国まであと4日となってしまった。明日のアカデミーヒルズでの講演が、パブリックの場では最後のイベントとなります。

ブログの更新を怠っている間にはや2週間。もちろん、その間のエントリーについてもこれからどんどんアップしていきたいと考えている。
今日は東京で過ごす最後の日曜日、午前中は物思いにふけりながら、新しく書き始めた意欲作のブレストや資料調査など。
ずばり、この本のテーマは「インターネットの誕生と資本主義の終焉」である。 ITと環境という独自の視座から、政治や経済、メディア論や宗教にいたるまでを網羅していきたいと考えている。新書はなかなか代表作になりにくいので、できたら単行本で出して、読んだ人を感動させる、そんな本にしたいなぁ、と。
どちらかというとアカデミックな本にしようと思っているので、いくつかの古典的作品(プロ倫とか空想から科学へ、資本論など)にも触れながら、環境本(とりあえずレイチェル・カーソンとゴア)、経済本(アダム・スミスや稲葉振一郎)、IT本、そして思想書や文化論なんかにも触れていこうかな、と。とりあえず資料を20冊ほど集めたが、終わる頃にはたぶん100冊くらい読むことになりそうですね(苦笑)

この本を書いていく中で、少しフォーカスを絞って学んでいきたい方たちがいます。これまであまり興味、というか接点がなかった方々。東浩紀さんや山形浩生さん、稲葉振一郎さん、レッシグ。浅田彰さんとかチョムスキーは過去にももちろん読んだことあったけど、改めて学び直しということで。宮台さんや宮崎哲弥さんあたりは、そうですね文化論の部分で触れる程度の内容に遭遇すればという感じでしょうか。渡米してから和書をまったく読まなかった時期がしばらくあったので、思想的にはどうやらがっつり空白になっている時期があるらしい。
とりあえず現在「ニッポンの思想」(佐々木敦著)を読みながら、もろもろリカバリーしているところです。でも、難しいことを難しいまま理解しようとしていた昔とは違い、「難しいことを分かりやすく」理解し説明しようとすることに主眼をおくようになっている自分を発見。どうやら大人になったようです(笑) 昔から「机上の空論」は大嫌いで、やはり現実に即していないと語るに値しない、そう思っているのですがその傾向は強くなっている様子。

そんな中、この「ニッポンの思想」で面白い箇所を発見したので紹介したいと思いました。それは浅田彰と東浩紀が対談している箇所(p.300-301)
ちょっと長いがママ転載で

浅田さんと僕とで意見がただ一つ異なるのは、浅田さんは、良いテクストはどこかにポンとあったら誰か読むだろうっていう話なんですよね。
浅田 いや、読まないかも知れない。それは仕方がないでしょう。
読まなかったら、事後的に見ると単に消えたものですよ。
浅田 消えても仕方がないでしょう。
それはある種のニヒリズムなのであって、書きたい僕としてはそういう立場を取るわけにはいかないですよ。
浅田 僕はニヒリストであると自認するけど、誠実にやろうと思ったら、まじめに書いて、後は海に流すしかないと思いますね。
だから、僕はまじめに書いてますよ。
浅田 だから、それでいいじゃない?
僕はそうしているわけです。それで、プラス・アルファのこともやっている。それで誤配可能性が高まるんだったらいいじゃないですか。
「いま批評の場所はどこにあるのか」

「誰もいない森で木が倒れたら、その音はしたのかしなかったのか?」という禅問答を彷彿とさせる内容だ。佐々木氏はこれについて両者に齟齬があると書いているが、これを齟齬とみなすのかどうかについては意見が分かれそうな気がする。むしろ齟齬になっているのは「良いテクスト」の部分である。浅田氏がいう「良いテクスト」は人に読まれる文章であり、東氏の「書きたい」コンテンツは必ずしも「良いテクスト」ではないかも知れない。が、ソーシャル時代にあって、良いテクストをネット上に配信したら、勝手に耳目を集めるという見方もできるし、その効果を最大化するには配置する場所をしっかり考える(誤配可能性が高まる)という工夫も必要になるという考えも正しい。

とあるウィキペディアの管理者と話した時に、実はコミュニティは「ウィキペディア」自体が何らかの形で「持続可能な発展」を遂げることができず、不慮に閉鎖されてしまうということも想定しているという風にお伺いした。年々増大する一方のコンテンツを支えるためには、相応の予算が必要であり、完全に寄付で賄われているウィキペディア(あるいはウィキメディア財団のプロジェクト全て)が必要な金額を集めることができずに「倒産」に追いやられるということも十分に考えうるわけだ。そしたらコンテンツはどうなるのか?
この管理者の方いわく、だからこそ「フリー」であることに意義があるのだという。つまりネットの住人がその気になれば、「自分たちのリスクで」それらのコンテンツを保護することができるということだ。(すでにWeblioのように自動でウィキペディアのコンテンツをコピーするようなサービスも存在している) しかし、存在意義がない、つまりパトロンを見つけられなかった記事については消えてしまうかも分からないし、コンテンツが改編されていくかも知れない。考えるべきは時間軸で、例えばウィキペディアが1週間後に消滅するから、コピーしてくれ、とお願いするのと、24時間以内に!というのでは対処できる人間も必要なリソースも変わってくる。ツイッターのようなソーシャルメディアツールの素晴らしいところはリアルタイムの情報拡散性である。

ソーシャルメディアはもっともっと掘り下げて研究されるべきテーマであるし、その文化的な意義についても理解したいと考える読者が増えていってくれることを願っている。
などというメッセージを今日も瓶に詰めて、ウェブの大海に放り投げてみる次第である。

立入 勝義 (Katsuyoshi Tachiiri) 作家・コンサルタント・経営者 株式会社 ウエスタンアベニュー代表 一般社団法人 日本大富豪連盟 代表理事 特定非営利活動法人 e場所 理事 日米二重生活。4女の父。元世銀コンサルタント。在米歴30年。 主な著書に「ADHDでよかった」(新潮新書)、「Uber革命の真実」「ソーシャルメディア革命」(共にDiscover21)など計六冊。