まずはこれをご覧いただきたい。近未来、というかすでに始まっている新しい電子書籍のカタチである。
制作したのはAtomic Antelopeという会社らしい。
くだらない利権擁護論争や談合を繰り広げている間に、クリエイターたちはどんどん与えられたチャンスを徹底的に研究して面白いものをつくりだしている。
目を向ける方向を見誤ってはならない。せっかく守った既得権益も、気づいた時には誰にも見向きされないものになっているかも知れないのだ。そして、このような機会を日本の消費者から奪うなんてことは、間違っても考えてはいけない。
そして、もっと言うと本質的にはこういうものだけでなく、本当の意味での「活字」文化が復活していかなければならない。ゲームの業界に例えると、こういうコンテンツは「カジュアルゲーム」の部類に入り、それとは違う「シリアスゲーム」というものが存在する。電子書籍でも同様に、こういったコンテンツがメディアの注目を集め、ユーザーの裾野を拡大していくが、同時にKindleがフォーカスしているような「シリアス」な活字コンテンツ(文学とか新聞とか)が同様に充実してきてこそ初めて電子出版という市場が万人向けの業界に近づいていくのである。
最近電子出版の未来についてディスカッションをすることが多く、もはや「戦友」の感があるPOPJNEOの市村氏の指摘で私もハッとさせられたが、俗にいう「活字離れ」という表現には無理があって、実際にはネットの普及により若者はむしろ「活字」には以前よりもつながりを深めているのではないか、と。ケータイメール、ブログ、ツイッター、ゲーム、マンガ、etc とどちらかというと活字情報漬け、という感すらある。もちろん活字離れという時の「活字」は違う質の活字表現を意味しているのだろうが、こういう「大本営」的な表現は受け取る側が真っ二つに分かれる場合があるのでよくよく注意していこうと考えさせられた。
ちなみにウィキによると活字離れの定義はこうだ(現時点)
活字離れ(かつじばなれ)とは、識字率が高い国や地域において、”文字媒体”の利用率が低下することをいう。
国語力が低下したり、読書や新聞から若年層がどんどん離れていく、というのは定義上は「活字離れ」を主張する根拠にはならない。では、どちらが問題か、それはお察しの通りである。これは「開国論」を書きながら気づいた本質的な日本社会が抱える大きな課題の一つだった。