「活字離れ」と「ゆとり」 – 縞馬たちへの伝言4

(このシリーズはティーンエージャーを対象に書かれているため、文章が平易になっていたり会話文が使われていたりするなど他のエントリーとは表現が異なります)

また来てくれてありがとう。誰にも言われずに、自分で何か行動を起こせるということ、それが自立するということだ。

(ぜん)というコトバを聞いたことがあると思う。禅というのは仏教の一つの禅宗というところからきているんだけども、この禅(英語ではZEN)というのは海外でとても「クール」だとされている。クール(Cool)ってのはカッコいい、とかイカすってことだ。(今風には別の言い方があるのかも知れないけども、僕ももうオジサンだから君たちの話すコトバはよく分からない)

禅は悟りというものを教えてくれる。悟り、ってのは「気づき」みたいなもんだと考えてほしい。本当はもっともっと奥が深いものだけども、ちょっとした「気づき」を得るにはこの禅の教えというのがすごくヒントになる。宗教なんて、古臭いだなんて思わないでほしい。世界ではむしろ宗教を信じている人のほうが多くて、なんだかよくわからない信仰(しんこう、宗教を信じること)をもっている日本人のほうが逆に珍しいんだ。

じゃ、気づきの話をしよう。視点(してん)というコトバはわかるかな?目線のことだ、どこから見るか、どう見るか、そういうこと。時にはこれを変えるのがとっても大事で難しいことだ。大人になればなるほど難しくなっていく、頭の中がこり固まっていくんだね。君たちはまだまだ若いから、頭はスポンジみたいに柔軟(じゅうなん、やわらかいこと)でなんでも吸収できる。それはとてもすばらしいことだ。気づきを得ると、急に目の前が開ける、これまでなんでこんなことに気づかなかったんだろう、ととても楽しい気分になるんだ。

活字離れ(ばなれ)」ってコトバを聞いたことがあるだろう?活字ってのは文字のことだから、大人によると、君たちは文字を読まないそうだ。読書嫌いの子供が増えてるって。小さい時から本やマンガがとっても大好きだった僕からすると、それは本当に残念なことだ。本は夢であり、ロマンだ。希望であり、失敗であり、人生を小さくしたようなものだから。でも、ちょっと待って欲しい。これって本当なのかな?
現に今こうして君はこのブログというものを読んでいるし、周りにはゲームや、携帯、そしてマンガであふれかえっているんじゃないかな。だから本当は君たちは「活字」から離れてっているわけじゃない、活字という情報(じょうほう)は君たちのまわりにむしろ増えている。ポイントはそこじゃない。情報というのは、単なる知識(ちしき)であって、それを読んだからといって吸収(きゅうしゅう)できるわけじゃない。でも読書は違う。本を読むといろんな世界へいくことができるし、自分がけいけんしたこともない感情にふれることができる。だから読書はすばらしい。

ゆとり」というコトバも同じだ。日本では「ゆとり」教育というのがあって、日本という国じたいがまちがったことをしたために、君たちの多くはその被害(ひがい)を受けた。被害ってのは痛みを受けることだ。だけど、安心してほしい、君たちはもう「ゆとり」なんかじゃない。なぜなら、周りがゆとり、ゆとり、とさわぐから、みんなもう「何かおかしいみたいだ」って感じはじめているだろう?だったらゆとりは卒業だ。君たちの中にあるのは「不安」であって「ゆとり」と違う。周りの人のレッテル(ラベルのことだ)なんて、はねのけて自分の力でその「不安」とたたかう方法を見つけてほしい。いい方法があったらオジサンにも教えてくれないか。

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立入 勝義 (Katsuyoshi Tachiiri) 作家・コンサルタント・経営者 株式会社 ウエスタンアベニュー代表 一般社団法人 日本大富豪連盟 代表理事 特定非営利活動法人 e場所 理事 日米二重生活。4女の父。元世銀コンサルタント。在米歴30年。 主な著書に「ADHDでよかった」(新潮新書)、「Uber革命の真実」「ソーシャルメディア革命」(共にDiscover21)など計六冊。

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