当たり前って何だ – 縞馬たちへの伝言5

(このシリーズはティーンエージャーを対象に書かれているため、文章が平易になっていたり会話文が使われていたりするなど他のエントリーとは表現が異なります)

訪問ありがとう。今日はどんな気分でこのブログを開いてくれたんだろうか。このブログというのは面白いシステムで、毎日何人、どういう国や場所から人が来てくれたか分かるようになっている。だから、書いている僕はこのブログを読んでくれる人の数が増えるととてもうれしいし、また書きたくなってしまう。また、たまに行ったこともないような遠い国からアクセスしてくれている人もいて、そういうのを見るのも楽しみだ。

今日は「当たり前」っていうコトバについて話そうと思う。これから君たちが大きくなって、大人としてみとめられて社会に出るようになると、だんだんこの「当たり前」っていう考えをいろんなところで持つようになる。大人はこれをたとえば、「常識(じょうしき)」というコトバに置き換えたりする。でも、この当たり前っていうのは人によってちがうから、そこに気をつけてほしい。そして、他人の「当たり前」を簡単(かんたん)に自分の「当たり前」にしないようにしてほしい。

社会はこの「当たり前」というコトバをうまく使って君たちを枠(わく)にはめこもうとする。つまり、みんな同じ扱いにしようということだ。大学に行くのが当然のことだ、大きな会社で働いてお金をかせいで安定した生活をするのがいいことだ、とかね。「就活(しゅうかつ)」ってコトバを聞いたことがあるだろう。大学を卒業してから仕事を探すのが本当なのに、苦労して大学に入ったと思ったらみんな勉強そっちのけで、仕事を探すのが当然だ、みたいな空気になっている。これも全部「当たり前」のワナだ。そして実は社会で本当に成功している人はたいてい、こういう「当たり前」は最初からムシしてる。
もちろん守らないといけない「当たり前」もある、例えば「人を傷つけてはいけない」とか「人に迷惑をかけてはいけない」とか。僕の母親は僕に小さい時から「世のため、人のために生きるのが当たり前のことだ」という風に教えてくれた。だから、その「当たり前」はいまだに僕のルールだ。でも逆に社会にはこういう本当に大事な「当たり前」を声を大にしてさけぶ人はいないもんだ。

わかりやすい例を話そう。僕が育った地元は正直言って品がよくなかった。中学校なんて本当に荒れてた。例えば体育の授業でクラス対抗でサッカーをやる。そうすると、どちらかのクラスが負けることになる。サッカー部が有名だったから、大体どちらかのクラスにサッカー部のやつがいて、負けたクラスにいたやつらは気に入らないわけだ。そうして、大体誰かを負けた原因(げんいん)にする。太った子とか気の弱い子とか、運動があまり得意でない子、そういう子らをクラスの後ろに並べてどなりながらぶん殴るんだ。僕の中学校ではそういうのが「当たり前」だった。そして、他のみんなはそれを止めようともしないのが「当たり前」だった。

でも高校はちょっとした進学校だったから全然そういうふんいきじゃなかった。そこで僕は「当たり前」っていうのは誰かが勝手に決めたことで、多くの場合はそんなの他の世界の「当たり前」じゃないってことを知った。今僕には子供がいて小学校に通っているんだけど、アメリカの学校じゃ小学校でも幼稚園でもクラスの友達に手をだしたら、学校から追い出される。こんな風に「当たり前」ってのは「みんなの当たり前」じゃないことの方が多いから、それにあまりひっかからないようにしてほしい。

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立入 勝義 (Katsuyoshi Tachiiri) 作家・コンサルタント・経営者 株式会社 ウエスタンアベニュー代表 一般社団法人 日本大富豪連盟 代表理事 特定非営利活動法人 e場所 理事 日米二重生活。4女の父。元世銀コンサルタント。在米歴30年。 主な著書に「ADHDでよかった」(新潮新書)、「Uber革命の真実」「ソーシャルメディア革命」(共にDiscover21)など計六冊。

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