Kさんに伝えるチャリティ2.0 ~ソーシャルメディア革命~ その1

(*表題を「教える」から「伝える」に変更しました。誰に指摘された訳でもないのですが、こちらの方がいいかと)

先日の投稿以来、慈善行為についての考えが私の頭の中を渦巻いている。欧米はキリスト教の精神に基づきチャリティが盛んである。何しろ長者番付のトップ連中が財産の半分を寄付していったりするくらいだからだ。一方、日本では今回のユニクロ柳井氏の10億円寄付のような大きなものは滅多に現れない。
2007年にまだ「ソーシャル」という言葉が無かった頃から、Charity Globeというオンラインのソーシャル型の募金活動サイトをメイン活動としたNPOを立ち上げた私は、残念ながらその後力がなくて、まともに稼動させることができないままここまできてしまったのを今、本当に悔やんでいる。本来ならば、こういう時にこそ本領を発揮することだからだ。では、チャリティグローブのコンセプトは何だったか?それは「寄付者(ドナー)」、「受益者(レシピエント)」、「サポーター」が一体となって、それぞれのCauseをサポートする活動だった。そのためにYouTubeなどのソーシャルツールを使う。TwitterもFacebookもまだ当時は発達していなかったので、YouTubeがメインの舞台となる予定だった。アメリカのオンラインチャリティ市場は一説によると7000億円とも言われており、これはアメリカのポテトチップスとポップコーンの市場を足したものらしい。(寄付全体は20兆円レベルで日本の予算の何分の一だ、とかいう記事もあった)

ここで、日本はもう一度慈善行為について考えてみるべきだ。その良い部分と見えない部分の両方を含めて。

私が「感情的になっている」ということで、いくつかお叱りのコメントを頂いた。ここではっきり言っておくと私は今

かなり感情的になっている」。

これは疑う余地もない。さらに、それは被害が続く限り続くだろう、ADHDの特性でもある。前にも書いたが、中学生の時に大阪市旭区のアウシュビッツ展や731部隊展で、人類の歴史の悲惨さに気づき、それから世界史を学び、言語を学び、様々なチャリティに参加し、そしてアフリカにも住み、今はコンゴの救済支援をしている。

何故か?
それは、ADHDもあるが極貧ともいえる幼少期の貧しい育ちの中で、他の地域にいる哀れな人たちと共感する心のレセプターのようなものができたからだと思っている。そして、私の場合それを芸術(文学)と宗教的倫理観(母がとにかく「世のため人のために生きろ」と言って育ててくれた)に基づいている。高校生の卒業文集に「外交官になって、その後国連で働いてアフリカを緑化する!」と高らかに宣言したのは、本当に当時はそれ以外にやりたいことなんてなかったからだ。

では、自分が愛する母国にそんな危機が起こったらどうなるのか? 当然居ても立ってもいられなくなるのである。そうでなかったら、私のこれまでの情熱も全部嘘だろう。愛する者や接点の多い人間に対する悲しみのほうが当然大きいのだ。
自分の家族が、とか友人が、とかそんなレベルではない。(幸い私の身近の人は皆無事だ)そんなレベルではないのだ。それを証拠に、地震が発生してから、まったく平和なこのロサンゼルスにいるのにも関わらず、普段の仕事がほとんど手についていない。最近は主にツイッターで日本の方とエンゲージをして、激励しつつ、こちらで何か助けになれないかと、メディアをあちこち尋ねて回っている。募金場所にも向かって取材をしている。それで、お金になるかというと、まったくならない。そんなことは分かっている。

そして、今感情的になることが悪いことなのか?と自問するのである。答えは「否」。
私の周囲にだって、驚くことに日本人ですら、冷めた対応を取る方達がいる。そういう人間と私は精神的に大きなギャップを感じ始めている。しかし、彼らには彼らの、そして私には私の生活がある。そして、やみくもに平和な街に不安を「拡散」させる必要もない。何しろ、ここアメリカですらようやく未曾有の普及から復活し始めているところなのだから。そんなことは言われなくても分かっている。しかし、やるせない気持ちは募るばかりだ。日本大使館は在米邦人について4月1日までの渡航規制を回文し始めたと聞く。

ここで、九州在住(IPアドレスでも確認が取れました)のKさんのコメントを紹介しながら、私の論点をご説明しよう。今回の一連のアメリカメディアの「日本を支援するな」の動きは、典型的なアメリカの悪しき部分のそれである。一理ある、とかそういうことではない。これを説明しながら、私が「どの部分」に感情的になっているか、をご説明したい。

ちなみに、Kとしか名乗らない彼の最初のコメントは
「正論ですね。うぃるさんは経済の勉強をしたほうが良いかと思いますよ。」
だった。。。

もちろん私は専攻(地理・環境学)こそ違えど、大学でも経済学の基礎を学び、その後もビジネスという生きた経済活動の中に従事してきた。(ちなみに大学時代勉強していた環境経済学派はいわゆる古典経済学派が大嫌いな左派ではある。だから大学時代から経済学部の連中とは折り合いが悪かった) 環境学を学ぶ上で経済学は私の学派は経済発展よりも持続可能な発展を重んじる。「ソーシャルメディア革命」にも書いた通り、私はもうそろそろ資本主義が次のステージに移行しかけているという風に感じている。世界をつなぐ「環境」というコンセプトはそもそも従来の資本主義、グローバル経済の考えとは相容れない、人類は進歩しているのだから、新しいパラダイムがでてきても当然なのだ。
私の「極めて個人的な意見」だが、資本主義の目的は「インターネットを生み出すことだった」と思っている。だからもう用無しである。
“In my opinion, I’m about to conclude that the ultimate objective of the birth and emergence of Capitalism is to give a birth to “Internet”. So the current capitalism is about to end its life!” – Will K. Tachiiri )

先日のダボス会議で菅総理のスピーチライターを務めた田坂広志先生が昨年のTEDXTOKYOでも提唱されたような「見えない資本主義」(Invisible Capitalism)のような考えは、本格的に考えられるべきだ、が、それは私の仕事だろう。実は私はどちらかというと、難しい話を逸話を用いて簡単に説明するほうが得意な人間で、専門用語を振りかざして話すのは得意でもないし好きでもない。だから、本でもマーケティング寄りの話を極力しないようにした。というのも、言葉だけの揚げ足取りの論争に巻き込まれるのが嫌だからである。定義付けとか、理論とか、そんなものは経済学の中ではアトヅケである、と私の大学時代の経済学の教授が言ったのだ。極端にいうと、経済学はアトヅケで理屈をつける学問だから、未来の予測なんてそれだけではできない。大局観を与えてくれるものではないし、相対的なものだから、刻一刻と変わり続ける。

これに対して、例えばITの中でのコンテンツやプラットフォームのデジタル化やCPUの進化などはある程度想定ができるものだ、それは大局観がそれなりに「利害関係が一致した」状態で共有されているからだ。では、世界の資本主義経済はどうか?資本主義をベースにした社会はいったい、いつどこで「利害関係の一致」を見るのか?そこにあるのは弱肉強食の競争の世界、文字通りお金が全ての世界である。私は世界を良くすることには、並々ならぬ決意と情熱がある、しかし、事象を専門家に分り易く説明するために経済用語を振りかざすこと、そして「あんた、経済学知らないね?」などという言葉しか使えなくする頭デッカチの人間にはなりたくないと思う。(大学時代よく言われた話だが、アメリカの社会では新卒で一番使えないのが経済学部卒業生で、一番使えるのが英語学部の卒業生だという。理由についてはここでは述べないが、察して頂けるだろう)

例えば、経済論争でン千億円という財源について、あぁだこうだといって国民を振り回している間に、アメリカではビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズのような起業家がでてきて、どんどん成功していくのだ。そして、篤志家として寄付するのだ。(例えばカリフォルニア州の財政難を救うために、発行したBondの六分の一を一人で買った大富豪がいた) 経済学なんていくら論じても、世界を揺るがす画期的なビジネスモデルなんてでてこない。(イノベーションと経済学はまったく無関係といってもいいくらいだが、「イノベーションの経済学」という本は存在し得るだろう 笑)
外為が動いたら、「保険会社がキャッシュアウトしたから」みたいなこという人間なんて、どうかしてると思う。デイトレーダーですら、為替がそんなに簡単な理由で動かないのよく知ってるのだ。そんなもの全て扇動である。エリート集団のActualliesが生み出したのがサブプライムだ、彼らは儲かったし、誰かを儲けさせた。
BPが石油事故を起こして、あれだけ多大な犠牲を人類に強いたのに、すぐに復興できる理由は簡単だ「ガソリンの値上げ」が実施できるからだ。
資本主義経済は絶え間なき競争原理で成り立っている、それだけ分かってれば十分だ。

私にとっての思想の教師はソクラテスであり、倫理的規範の最初の師匠はカントである。人類は彼らの時代からそれほど進化したのか、というと本質的には対して変わっていない。しかし、着実に前進している。それが私に取っての人生の本質だ。だから世界平和が重要だと思っている。人類はそちらに対して向かうべきだからだ。日本人は「愛」という言葉を嫌う。だが、世界は「愛」を求めている、それは一人の人間がそれを求めているからだ。そして日本人とてもちろん例外ではない。日本人の文化の中には「空気を読む」という言葉に代表されるように、言わなくても分かるという前提の概念がある。日本人にとって、「愛」とはあえて言葉で現して陳腐にするものではないのだ。だから日本人は「愛」という言葉はできるだけ使わずに表現しようとしているに過ぎない。
しかし、これが国際現場では度々誤解を生む。今回のチャリティの問題も、間違いなく同じポイントがある。

冒頭の部分

荒らしのつもりでコメントを書いたわけではありません。すこし感情的になりすぎていませんか?
しかし、うぃるさんが被災者に対して強い同情の気持ちを持っているということは伝わりました。

私の意見を述べます。文章が苦手なのでわかりにくかったりするかもしれませんが、がんばります。

はい、感情的になっています。しかし、それとこれとは別問題です。ある意味感情的になっているのはCarney氏のほうであり、Kさんが読んだ文章を努めて「冷静に」翻訳したのは感情的になっているはずの私です。お忘れなく。
これは、個人攻撃ではなく、日本にありがちな「特定の考え」に対する私の視座を説明するものですので、悪く取らないでください。

論点1 日本はまだ金持ちか

>それとも日本はまだまだ昔みたいに、とんでもない金持ち国なんですか?

そのとおりです、とんでもないお金持ち国です。政治論争は無視して数字を見ましょう。
テレビや格付機関は間違っているか誤解をあたえるような表現が多いですから絶対にうのみにしないでください
世界最大の債権国
http://newsmanga.com/social/20100607_24350080_001.html
世界最大の債務国
http://ishin.in/modules/report/details.php?bid=29

うぃるさんが日本は国債を過剰に発行しすぎて借金だらけの貧しい国だと思っておられるのが「日本に寄付する必要はない」という意見に対して憤慨しておられる理由だと思いますが、このJohn Carneyという人は
>日本が世界で最も豊かな国の一つである
と書いているようにそうは思っていないようです。

金持ちのjpnという人が転んで骨折をしましました。それを知ったjpnに膨大な借金をしている世界一の貧乏人usaさんは急いで駆け付けて応急手当をし、そして病院に連れていき入院の手続きまでしてくれました。そして治療費の一部を負担しましょうかと(返すべき借金とはべつにして)申し出てきたのです。それをJohn Carneyという人が「それはおかしいんじゃないか?」という意見を言いました。
それを聞いたうぃるさんがJohn Carneyは最低な奴だと言っているように見えたので私はJohn Carneyの言っていることは正論ですよと書き込んだのです。

まず、私はJohn Carney(@Carney)が最低な人間だとは言ってません。実際にツイッターでやり取りしましたが、彼は日本をいたわる言葉を最初に投げてくれています。しかし、「それでも金銭的援助は必要ないと思う」と述べたのです。で、実は私も彼の論点に全て反対しているわけではありません。それでも彼の投稿は「間違って」います。もちろん、それは私の視点からです。彼が述べることを正論だということと、彼のいうことを支持するかというのは別問題です。というのも、彼が述べる点以外での正論もあるからです。私はここで述べる自分の論点が「正論」と感じてもらえるかどうかに興味があります。

まず日本が金持ちかどうか、ということですが、世界的に見たら間違いなく富裕な部類に入ります。何しろ長年「世界二位の経済大国」というタイトルを謳歌してきた国です。これの基準をGDPにするのか、GNPにするのか、PerCapitaを使うのか、資産を用いるのか、そんなことは興味ありません。ですが、かつての地位は確実にゆらぎ、今や下降の一途です。今回の地震報道を巡る一連のメディア論争では、日本の外交ベタが確実に災いしています。日本人は「国力」という言葉を敬遠し続け、結果として国際競争力をどんどん低下させてしまいました。(これに関連した英語力論争もまったく見当違いのものが数多く存在します)

日本が豊かだ、これは会計学上でいうところのBSの部分だ(しかし、いい加減日本政府はタンス預金を計算するのやめたほうがいいのではないか。埋蔵金と同じように、がっかりするだけかも知れない)。この中には、到底換金できない米国債も入っている。では、PLはどうか、赤字だ、大赤字だ。
では、国民はどうか?国民の資産は間違いなく目減りしていないか?収入はどんどん下がっていないか?そうじゃない根拠があればいくら出してもらっても構わない、しかし、私は現実を知っている。一般国民は苦労している。そして、今回の被害は一般人を多数巻き込んだ、彼らにとっての保障は何か?
被災地にいる個人を見た場合、確実にBSは減少した。そして、PLももちろん減少する。だって稼ぎがないんだから。中小企業の経営者だってそうです、今絶望に陥っている経営者が日本に何人いると思いますか?毎年3万人以上いる自殺者の中に、彼らの数がどれだけ含まれていることでしょう。Kさんは彼らがどうやって復興すると思われるんですか?日銀が銀行に5兆円回しても、それが中小企業にまわる方策は何もありません。(経済用語かどうか知りませんが、貸し渋り、という単語をご存知でしょう?)

慈善活動は「日本国」に対して行われるのではなく、「被災者」に充てられるのを勘違いしないで頂きたい。これは、ODAなどのような政府機関の援助ではなく、あくまでも「寄付者」と「受益者」の相互間の需要と供給の問題だ。間に仲介者が入るだけだ。ODAでは政府が腐敗していると現地に届かないという例がある、しかし、日本ではこれは何とか処理できる。市民がお金の使われ方に目を見はればいいのだから。

上記のKさんの例は、もっともらしく聞こえるが、大きな間違いが含まれている。今回の話でいうと、転んだのはJPNさんではなく、JPNという会社が運営するバスだ。そして、USAさんはKさんが日本が豊かだ、というのと同じ理由で豊かである。世界一の金持ちはUSAさんだ。彼は世界のお金持ちから莫大な借金をしているが、それを払う必要がない状態にある。そして、督促されると、家の壁を直してあげたり、治安が悪いからといって用心棒を派遣してくれたりする。

USAさんがJPNというバス事故に対して救済を表明したら、JPNというバス会社はかなり豊かなバス会社だということが判明した。しかし、そのバスには50名の人間が乗っており、死んだ人間も多数、まともな生活を遅れなくなったものも多数いた。そして、実は最近JPNという会社も大赤字だった。BS上の資産はある、しかしキャッシュフローが続かない。キャッシュが回らなければ、国は終わる。Kさんはそこはどうお考えになるのか?だからJohnはキャッシュの話をしているのだ、しかし、国の経済はそんなに簡単なものではない。それができるなら、日本はとっくに米国債全額に相当する分をキャッシュアウトしてるだろう。インフレも起こるのは眼に見えている。USAさんはJohnさんにそそのかされて、支援を取りやめた。しかし、その後JPN会社は破綻してしまい、被害者には補償金がおりず、もめている間にもどんどん死んでいった。USAさんはポケットの中に入っている小銭を使っていれば、バスの中の3人は3ヶ月生き延びることができ、その間に親族が彼らを迎えにくることができた。じゃーJohnさんは何故それを止めたのか?そこに真相がある。
Kさんは経済学についてどれだけの知識があるのか存じませんが、「ODA」と「該当募金」の違いが分からないくらいに当惑しておられる。

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立入 勝義 (Katsuyoshi Tachiiri) 作家・コンサルタント・経営者 株式会社ウエスタンアベニュー代表 一般社団法人 日本大富豪連盟 代表理事 特定非営利活動法人 e場所 理事 日米二重生活。4女の父。在米歴20年以上。 主な著書に「ADHDでよかった」(新潮新書)、「Uber革命の真実」「ソーシャルメディア革命」(ともにDiscover21)など計六冊を上梓。

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